駄菓子屋さん

店主が日本史、中国史を面白、可笑しく史実に基づき語ります。どうぞ気軽にお越し下さいませ。

三国小話・全琮編

つい先日のこと、長いこと贔屓にしていたいきつけのお店が長い歴史に幕を下ろされました。
昭和の時代からずっと同じ場所で、変わらぬ味を提供し続けて下さったこと、生涯あの味は忘れることはないだろうと思います。
しかし…またひとつ『思い出の味』が増えてしまったことを残念に思わずにはいられません。もう一度、食べたかったなぁ…

さて今回は三国小話。呉国内にあって列伝に「完全無欠」な名将としてその名を轟かす武将、全琮のお話。しかし…どこかに違和感が。
それでは、今回もはじまりはじまり〜


全琮 子璜(ぜんそう しこう)

呉郡の出身で、孫権に仕えた武将。後漢の『孝廉』にも選ばれ、呉の大都督にまで抜擢されるという輝かしい経歴の持ち主で、戦場に出れば負け知らず、関羽を奇襲する策を事前に考案して孫権から褒められるなど、文武両面において非凡な才能を見せた人物とされる。

「誰だ!」という声がほとんどだと思います。冒頭のような大活躍をしていながら、実際のところ知名度に関していえばイマイチどころかほぼ通用しないほど、この全琮という男の実力は経歴ほど評価されていないのが現状といったところ。
おそらく、どこかのゲームで彼が実装されたとしても、せいぜい中堅クラスかそれ以下…その他大勢の部類に入れられてしまうのではないでしょうか。
あまりにも列伝と知名度に差のあるこの全琮という人物…この違いは一体どこから生まれているのか?店主の個人的な考察も含めながら、まずは彼の輝かしき「列伝」を紐解いていくことにいたしましょう。

全琮は揚州呉郡にある、銭塘県という土地で誕生しました。こうまでしっかり住所が残っているところを見る限り、彼はかなり有力な家柄の出身であることがわかります。
それもそのはず、彼の生まれた「全家」は、古くから揚州で勢力を誇っていた土豪の集団、いわゆる『呉郡四姓』に次ぐとさえいわれた名族。陸、顧、朱、張…この四姓が牛耳る中で、全家はこれらに負けるとも劣らない勢力を誇る一族だったんです。

さてそんな名家に生まれた全琮でしたが、彼よりもまず先に有名になったのは彼の父である「全柔」。後漢末期の動乱の中、全柔はわざわざ中央から招聘を受けて就職したというほどのエリートで、しかもその任務はといえばさらにその中でもトップクラスのエリートコース、尚書…簡単に言えば中央の官僚になるための第一歩ともいえるポストを与えられました。
ブッチギリで高待遇な役職を与えられた父を持ち、全琮は生まれながらに裕福な育ちを受けることとなったのでした。


しかし。そんな明るい未来はあの男…『董卓』の出現によって絶たれることになります。霊帝(劉宏)の病死と、それに伴う宦官と大将軍・何進(かしん)との権力闘争によって洛陽は大混乱となり、その間隙を縫って霊帝の二人の息子…劉弁と劉協を手に入れた董卓は、我が物顔で国政を私欲で満たすようになり、世は再び戦乱へと舞い戻っていってしまったのです。

そんな状態ですから、全柔もこの先の出世は見込めない…どころか、董卓の機嫌一つで命すら奪われかねないと悟った全柔はさっさと職を辞して故郷の呉郡へ戻り、その後揚州を平定しにやってきた『小覇王』孫策に仕えるようになったのでした。
そしてその孫策が200年に横死してからは、その弟である孫権にそのまま仕えることとなったのです。

孫権から与えられた、全柔の役割は「車騎将軍」。全軍の中でもこれほど高位な役職を与えられたのは他にはいません。全柔は孫権軍の幕僚の中でも筆頭を張る立場となり、あの『呉郡四姓』のうちの一家、張家の代表である張昭(ちょうしょう)をもしのぐ立場を手に入れたことになります。
…とまぁ、こんな非の打ち所がない立派な父を持って生まれた、今回の主人公全琮。そんな彼ですが、どうやら若い頃から立派な父にも決して劣らない才覚を持っていた…といいます。

ある日のこと。父からちょっぴり面倒な『おつかい』を頼まれた全琮。そのおつかいとは、車にひかせた五千石の米を街で金に換え、その金で必要なものを買ってきてもらう…というもの。つまり、商才如何では手にする金額に差が出るという若干試しているようにも見える内容でした。
ところが…全琮は何を思ったか、『何一つ』持ち帰らずに帰ってきてしまったのでした。


『預けた米はどうした?頼んでおいた物はどこにやってきた?!』
当然、色をなして全琮に問いただした全柔。すると全琮は
「あの五千石は、近隣で食うに困っていた人々に分け与えてきました。今回聞いていた品物はどれも緊急に必要とは思えませんでしたので、後回しにいたしました」
と、悪びれることなく答えたのだとか。

これを『英断』『慈悲深い』と取るか、『勝手』『自己満足』と取るのかは議論が分かれるところ。が、列伝はこう続きます。
彼のしたことは近隣で評判となり、戦乱のうち続く中で銭塘県に疎開してきた民衆らは、皆全琮に頼ろうと集まってくるようになり、全琮はその願いを聞き入れて私財を投じて彼らの面倒をみてやることになり、結果全琮の名は呉郡でひときわ鳴り響くことになった…のだとか。
なんでしょうね、このよくあるサクセスストーリーみたいな展開…個人的にこの辺りからすでに色々香ばしい匂いを感じます。

さてそんな全琮ですが、なにも器がデカいのは心だけではない。戦場にたっても彼の大活躍は常に見られます。
特に孫権陣営にとっては、樹立当初からずーっと長い間懸案とされる案件、『山越族』との抗争。常に反旗を翻すこの異民族の平定に、全琮もまた将軍として派遣されることになりました。
そこで全琮は、孫権から与えられた五千の兵に私財を投じてさらに兵を集め、一万の軍勢に拡大して事にあたったおかげで山越の侵略を跳ね除け、任務を全うしました。その軍功もあり、全琮は正式に孫権軍の一翼を担う武将の仲間入りを果たします。
さてここから、全琮の大活躍が始まるのでした。


この頃、中国大陸はほぼ魏・呉・蜀の三国で鼎立する拮抗状態が完成しつつありました。
北部を中心に天下のほぼ七割ほどを手中に収める魏、荊州を隔てて西の益州を我が物とした蜀…そんな中にあって、呉は常に一歩遅れた状態。北にも西にも勢力を伸ばすことができず、相変わらず山越ら異民族との抗争は続く…逼塞の状態が続いていたのです。

赤壁の戦いの勝利で魏軍に大勝を収めることはできはしたものの、かといってこれにより領地が拡大できたわけではない。しかも劉備に貸した荊州はそのまま関羽が居座り、ちっとも返す様子がない。どちらにも手を伸ばせないまま、決死の覚悟で乗り込んだ『合肥の戦い』は、魏の名将・張遼の活躍により阻まれることとなり、呉国内のフラストレーションは溜まっていく一方…
「元はと言えば、劉備が助けを求めてきたから手を貸してやったのに」
という不平不満が募っていった結果、とうとう蜀・呉の同盟関係には大きな亀裂が走ることとなったのです。

曹操軍を相手に、漢中の定軍山で驍将・夏侯淵を破り攻勢に出た益州の劉備本隊と歩調を合わせるように、荊州の留守を預かっていた関羽が同時に北へと侵攻を開始。連戦連勝を重ね、龐徳を斬り于禁を捉え、怒涛の勢いで魏の都・許昌を目指す。さしもの曹操ですら遷都を考え始めた、そんな時…
呉は盟友であったはずの蜀を裏切り、大将・呂蒙に命じて関羽の後方を襲わせ、まんまと勝利。関羽を斬り、荊州の奪還を成功させたのでした。

この奇襲作戦はそもそも、孫権と参謀についていた若き司令官・陸遜、そして当の呂蒙以外は誰にも明かされていない極秘の作戦でした。
ところが…ただ一人、この作戦が実行される直前に孫権へ向けてこの作戦を主張した人物がいたのです。それが全琮…彼はたった一人でこの妙案を思い付き、孫権に献策したのでした。
その結果、戦勝の酒宴の最中に孫権は
「君の見識の高さには参った。まさか自軍にこの作戦を見破る男がいたとは」
と、全琮を絶賛した…とされているのです。


この『事前に策を思いついていた』という部分…ここにも何やら疑問符がつきます。
そもそも列伝では、全琮がこの作戦を打ち明けた際に孫権は彼に口封じをしており、結局作戦そのものは極秘裏のまま決行された…とありますが、じゃあ全琮が本当に策を思いついていたのかどうか?その証拠を指し示すものはどこにも存在しないことになります。
そして、「実はこうだった」という後付けの結果論は、これは誰にでもできてしまうこと。それこそ、「列伝を書いている人間」の気分次第で、いくらでも盛れてしまう部分と言わざるを得ないわけで…。

ま、今はそのことはさておき。義弟・関羽を失った劉備の怒りは収まらず、蜀の皇帝へと即位したその翌年に劉備は関羽の弔い合戦とばかり呉へと侵攻を開始。対する孫権は迎撃の総指揮を陸遜へと預け、陸遜は劉備軍の猛攻を耐えに耐えて逆転の機運を待ち、火計によってこれを撃退するという大勝利を収めます。これがいわゆる『夷陵の戦い』です。
ただ、この戦いで最も得をしたのは第三者である魏。呉蜀の同盟の破綻は、魏にとっては各個撃破の大チャンス…魏の皇帝・曹丕は、ここぞとばかり呉へと攻め込んでくることとなったのでした。


大将軍・曹休をはじめ、曹仁・曹真らを三軍に分けて同時に襲いかかる魏軍。これに対し、孫権は敵主力の防衛を宿将・呂範(りょはん)に命じ、その与力として全琮を配置。
ところが敵勢力にはあの張遼や名将・臧覇(ぞうは)らが加わっており、呂範軍は防戦一方。敗退していく味方の中、全琮はただ一人踏みとどまって前線を守り、後方からとうとう前線へと呼び出された呉の守護神、賀斉(がせい)の到着まで持ち堪えたのでした。

戦術面でも、戦力としてもとにかく八面六臂の大活躍を見せた全琮。そんな彼はやがて出世を重ね、故郷である銭塘県を含む「九江太守」という重職に任じられることに。彼に与えられた最大の任務は…やはり『山越の討伐』でした。
この頃すでに引退、もしくは世を去っていた賀斉にかわり、山越平定の任を引き受けた全琮は、ただ闇雲に山越を討伐するのではなく、彼らの主張にも耳を傾け、自軍の規律を厳しくして範を示し、次第に山越族の帰順者を増やしていった…といいます。
この男、とにかくやることなす事全てがうまくいく…武将の「教科書」のような人物として列伝が残されているのです。


そんな全琮に、孫権はとうとう「お前も孫家にならないか」と誘います。つまり、孫権の娘…孫魯班(そんろはん)との結婚を勧めたのです。

ずいぶん昔の小話で書いた内容なので、お忘れの方も多いとは思いますが…この娘こそが呉の衰退を決定付けることとなる悪女。実の妹…魯育を死に追いやり、呉国内を真っ二つにした派閥争い『二宮の変』を勃発させた、張本人です。
孫権の祖父・孫堅や兄・孫策の血を色濃く受け継ぐこの魯班を妻とした全琮は、この後に起こる呉軍最大の作戦「芍陂の役」において全軍を統括する大都督へと抜擢され、揚州全軍の主力部隊、その全てを任されます。
先陣に諸葛瑾の息子・諸葛恪を据え、自身は主力軍を率いて北上を開始すると、同時に荊州からは諸葛瑾を先頭とする別動隊を、後詰を夷陵の戦いで殊勲を挙げた朱然(しゅぜん)に任せて多方面からの侵攻を開始。さらに全軍の遊撃隊として、孫権の皇太子である孫登(そんとう)、その参謀に陸遜を付けるというオールメンバーを動員しての大戦へと臨んだのです。

戦況は一進一退、激戦となったその最中…事件は唐突に起こる。孫権の後継者だった孫登の急死により、半ば隠居状態だった孫権は慌てて実権を握らざるを得なくなってしまいます。
が、後継者を突然失った孫権の悲しみは深く、この芍陂の役はなんら得る事なく撤退を余儀なくされてしまうことに。
しかも悪いことに、同時期に孫権のブレーキ役だった諸葛瑾も病でこの世を去ってしまったことから、呉は唐突に大黒柱を二本失ってしまったのでした。


この孫登と諸葛瑾の死が、結果二宮の変の引き金となりました。
優柔不断な孫権は、呉の次の後継者の候補選びに迷いを生じてしまいます。
三男の孫和(そんか)と四男の孫覇(そんは)、この二人の皇太子を「同等に」扱い、どちらにも後継者たる力があるように分散させてしまったせいで、二人をそれぞれ推す『派閥』が出来上がってしまう結果となってしまいます。
そして…本来ならば絶対に避けなければならない家中分裂という最悪のシナリオを、裏で煽り操っていたのが全琮の妻…孫魯班だったのです。

孫覇を推す魯班は、孫和を引き摺り下ろすべく暗躍を開始。というのも、原因は単純…孫和の母と魯班との仲が悪かった…という、単純極まる理由のためだけに、家中は引っかき回されることとなります。
が、実はこの際に別れた『派閥』が、もう一つの問題点を浮き彫りにしていました。

それぞれの皇太子を推す派閥は、実は綺麗に「ある共通点」によって別れていました。その共通点こそ、呉という国の根幹に関わる大問題…『呉郡四姓』の存在。合議制によって政治が行われるという特殊な形態を持つ呉にとって、彼ら四姓の存在は決して無視ができない重要なもの。が、この時四姓らはこぞって孫和についていたのです。

つまり。魯班にとって四姓らは
『孫家の独裁を邪魔する存在』
でしかなく、我の強い彼女にとってそれらは排除すべき敵。だからこそ魯班は四姓以外の勢力を(全琮も含めて)一方へと集め、これに対抗しようとしたのです。
そして、魯班が最も警戒していた孫和派の筆頭に収まっていたのが、四姓のうちの一つ陸家の当主、陸遜だったのです。


列伝において、陸遜は
「能力はあれど気性烈しく、他者の心を考えない」
という評価をされています。
その評価が、果たして本当のことなのか否か?それはかなり疑問ですが、魯班はこの点をしつこく父である孫権に吹き込み、やがて孫権は陸遜を遠ざけ、陸遜を自害へと追い込むこととなってしまいます。
こうして孫和派の筆頭を排除したことで孫覇派は台頭し、やがて孫覇派の影の暗躍者たる魯班の夫として中心に据えられていた全琮の存在感は呉国内で絶対のものとなり、二宮の変は孫覇の勝利という形で終わる…はずでした。

が、その直後。その全琮が病で急死したことにより、両派閥のトップが姿を消すという元の木阿弥状態へ逆戻り。結局この泥沼は呉の滅亡まで、尾を引くこととなっていったのでした。

二宮の変辺りで、唐突に「全琮」の存在感が消えていたことにお気づきだと思います。そう、彼はこの変で何かをしたわけでもなければ、止めようとしたわけでもない。ただただひたすら「担ぎ上げられていた」だけ。魯班の夫という立場でなければ、そもそもその場にいたかどうかも分からない…それくらいの存在感しかなかったんです。
若い頃からお手本のような行いを見せ、文武両道に大活躍を見せたあの面影は、後年まったく影を潜めている…まるで、彼が
「ただの普通の人」
であるかのように。
これが、今回の一番の肝となる部分なんです。

さんざん匂わせてきましたが、彼の大活躍を描いた「列伝」。その作者は誰あろう全琮の息子であり、魯班の息子でもあるわけです。
だから、父であり派閥の長に据えられていた全琮のことを、間違ってもあしざまには書けない…経歴そのものは呉史にあれど、その内容に関してはそのほとんどが『創作』されたものである、というのが店主の見解。
でなければ、現在における彼の評価とあまりにもかけ離れすぎていて整合性がとれないのです。
歴史は勝者が造るもの…が、人の評価はそう簡単にはいかないもの。後年になってしかわからない部分ではあるものの、歴史とはそういった『真贋』も、意外に正しく伝わっていくものなのではないか?と思います。

というわけで今回は全琮のお話でした。いかがだったでしょうか。
自身の経歴を美化・誇大に装飾し、尊大に構える人というのは今も沢山います。が、それが実際には『裸の王様』でしかないことに、果たして当の本人は気付くことができるのか、どうか?
そこに、本当の器量というものが見えてくるような気がします。

それでは、また次回です(。・ω・。)ノチ

歴史の小話・毒の戦編

二月です。もう春なのです。なのに何故か二月が一番寒い気がしてます。早くあったかくなってほしいのです。
こたつの中からこんばんは、店主です。

さて今回は歴史の小話。人間の最も醜い一面が顔を覗かせる場面…『戦争』。その中でも今回は歴史上実際に使われた『生物兵器』について、お話していこうと思います。
それでは、今回もはじまりはじまり〜


太古の昔から、人間は世界中で互いの『欲』を満たすため、戦いに明け暮れてきました。金のため、征服欲のため、己の掲げる正義のため…様々な大義名分を盾に、数えきれないほど多くの戦争が行われてきたわけですが、今回はそんな中にあって特に『毒』を使用したものについて、まとめてみようと思います。
今回のお題、見る方にとっては閲覧注意にもなりかねない凄惨なものも含まれる恐れがあります。なるべく過激な表現は避けていこうと思いますが、苦手だと思われる方はどうぞ読み飛ばしてくださいね。

まず最初にご紹介するのは…『人間を用いた毒兵器』。
初っ端からキッツイ兵器が登場しますが、実はこれが最も多く使用された『毒』なんです。
戦争によって命を落とした「死体」…これが人間兵器の原材料。
まったくもって想像したくないものですが、これを下流に陣取る敵側に流す…これだけでも十分に効果を発揮してしまう。腐敗した人体から発生する毒素が川の水を汚し、敵軍の飲料水に影響を及ぼすわけです。
また、「生きている」人間からも毒は生成できてしまう。あけすけに言ってしまえば排泄物のことですが、これを井戸に投げ込んでしまうだけでその井戸はもう使用不能。うっかりその水を体に入れてしまえば、五体は満足では済まなくなる。
なので戦時中、遠征中の兵士達はそんな罠から身を守るため、自前で水を「濾過」する方法であったり、わざわざ自分達で井戸を掘るなどの対策をする必要があったのです。


このような「罠」から兵隊を守るため、その指揮官達にもまたスキルが要求されることになります。
戦場に布陣を行う際、もちろん戦術的に有利な場所に陣を張ることは必要な条件なのですが、それ以上に「衛生面を保つことが可能な場所」を選定する能力が必要とされたのです。
自分を含め、兵士らが健康でいられる場所…疫病が蔓延しないよう、空気だったり飲料水だったりといった環境面で優良な場所を選ぶことが求められたのです。

だがしかし。『人間兵器』はなにも遺体や排泄物といった「罠」だけではなかった…生きているままの人間を敵側に放つ、というケースも実際に行われたのです。
これは何か?というと、ぶっちゃけていえば「性病」を持つ娼婦を敵陣営へ送り込むことなのです。
普段は表に出ることのない、人間の持つ欲望を前面に押し出している状態の戦場。理性やモラルなどというものはよほど軍律が行き届いていない限り、遵守されることはありません。命のやり取りを続けている中、目の前に「女性」が通りかかったら…それも、敵軍側の人間だったとしたら、もうそれだけで『男性』の欲求は暴走する他ありません。
それが、例え敵の仕掛けてきた罠だとしても…です。

中世に世界を席巻した、モンゴル帝国。彼らは特にこれら「人間兵器」を多用したと記録されています。敵側の城の中に疫病で亡くなった遺体を投げ込む「疫病爆弾」は、その見た目だけでも敵軍を恐れ慄かせました。
何しろその投げ込まれた『爆弾』は、身体中に黒い斑点が浮かび上がっていたからです。
『ペスト』…黒死病とも呼ばれる感染力・死亡率ともにトップクラスの病を投げ込まれては、恐れないわけにはいかない。戦う前から士気そのものを削ぐ意味でも、この攻撃は異様なほどの威力を発揮したのでした。


他にも中世ヨーロッパ、イタリア戦争時代には敵軍だったフランス軍の野営地へ向けて『梅毒』の発症していた娼婦らを追いやり、疫病を蔓延させる作戦
『毒の娼婦』
作戦が行われたことも記録されています。
また、古代アジアのヒッタイト(小アジア文明)時代には、敵軍に向けてではなく「敵国全体」へ向けてこの毒爆弾が使用されたともいわれています。
病にかかった大量の牛と一人の少女を敵国へとおいやり、それによって敵国全体を疫病にかけようとする作戦が行われたのです。

『彼女らを受け容れる国が、この邪悪なる災いを受け取らんことを』

当時を記した史料には、この一文が明記されるのみ。その作戦がどのような結果を出していたのか…それについては、未だ分からないままなのです。

人間は、『敵』とみなした相手を滅ぼすためならばどのような非道な真似もことごとく行う、ある種最も危険な生物なのかもしれません。
次は、我々のすぐ身近にこんな危険な思想を持っていた連中がいたことをご紹介いたしましょう。


『ボツリヌス菌』。
実は自然界のどこにでもいる、この菌。この菌の中に入っているある『毒』は、実は地球上で最も殺傷力の高い『毒物』として知られています。
例えば青酸カリ…サスペンスやらコナンやらでよく登場する有名な毒性の物質がありますが、このボツリヌス菌から生成される毒はこの青酸カリの数百倍の致死率を誇るとさえ言われています。
その威力はというと、例えばボツリヌス菌から抽出できた毒物が500ミリリットル手元にあったとしたら、たったこれだけで
『地球上のすべての人間を抹殺できる』
というほど、毒性が高い代物なのです。

そんなヤバい物質を持つ菌が、自然界のどこにでもいるというのも中々にショッキングなことですが、実は通常時にはこのボツリヌス菌は『睡眠状態』にあり、この状態では毒を出さないので安全なのです。
では、その睡眠はいつ解けるのか?と当然思いますが、これは
『無酸素状態』
になった時、はじめて覚醒するものなのです。だから、酸素が存在しなくなるなんてことがない限りは自然界でこの毒が覚醒することはないんです。

よっぽどのことがないかぎり、人に危害を加えるような事態にはならないこのボツリヌス菌。だから…「人為的にこれを利用しようとする人間」がいなければ、それは安全といってよかったんです。
そう、これを利用しようなどという人間がいない限りは…

恐らくは皆さんの記憶にもまだ残っているであろう、あの事件。
『地下鉄サリン事件』を引き起こしたあの宗教団体、オウム真理教。この集団が、ボツリヌス菌に目をつけていたことをご存知だったでしょうか。

国家転覆を企み、信者達の理想郷を創造せんとした宗教団体は、その理想の実現のため教祖・麻原彰晃を筆頭に幹部らを衆院選に立候補させ、政権奪取に動きました。
まぁその結果は全員が落選という当然のものになったわけですが、彼らは己の信じる理想郷創造計画が上手くいかなかったことで、その計画を変更しようとします。それが
『日本がダメならば、この世界すべてを理想郷にすればいい』
という、ぶっ飛んだ思想。
教祖の呼びかけにより、石垣島へと集まった信徒らはそこで恐るべき計画…「世界人類を滅ぼすための会議」を決行。そこで登場した武器こそがこの『ボツリヌス菌』だったのです。


ボツリヌス菌を生成し、気球に乗っけて各地へ飛ばし、破裂させて散布しようというのがこのトンデモ計画の概要。嘘のような、冗談のような、でも決して笑えないこの計画を麻原彰晃は信徒らへ指示を出し、実際にこの研究は開始されました。

が、結果から言えばこの計画は大失敗に終わります。まずもってこのボツリヌス菌の抽出が失敗。無酸素状態にすることはできても、これをいざ動物実験で使用しようとすると酸素に触れて再び休眠状態へ戻るため、結局何も起こらない。
それに加え、そもそも抽出できた毒のレベルが強すぎて扱いに困る。何がきっかけで研究者本人にそれがかかるかわかったものではないから、触ることができなかったんです。
そしてさらに。世界中にバラ撒こうと息巻いた割に、「じゃあ自分達はどうやってそのボツリヌス菌から身を守れるのか?」が抜け落ちていたんです。
ビニールハウスでも作ればいいんじゃね?と試しに作ってみたものの、作りが雑すぎて風だけで穴が空く…といったお粗末極まる失敗が相次ぎ、かくしてボツリヌス菌散布計画は見事に頓挫。
しかしその結果…規模を縮小せたとはいうものの、あの『地下鉄サリン事件』は決行されてしまうこととなってしまったのでした。


このように、最も危険な毒物として広く知られるボツリヌス菌。だがしかし、人間というのは恐ろしいもので…現在、このボツリヌス菌はある分野で活躍するに至っているのです。
500ミリリットルもあれば人類が死滅するとさえいわれるこの毒、これを目一杯薄めて使用することで、なんと今は「美容」に効果を発揮しているというから驚きです。

ボツリヌス菌から生成される毒は「神経毒」といい、種類としてはフグの毒と同じ部類になります。生物の神経系統や筋肉組織に作用し、その活動を阻害する毒物なのですが、めいっぱいこれを薄めることで「身体の一部分のみの筋肉に作用させる」、つまりは顔のシワを取る薬として利用されているんです。
なんというか、なんでも使いようによるものなんですねぇ…。

そしてお次に紹介するのは、実は今でもまだ使用されている毒兵器。つまりは「毒を持った生物」による攻撃です。
毒蠍や毒蛇、毒蛙など自然界には自衛のため、または獲物を仕留めるために体内に自ら毒を持つ生物が存在します。これをそのまま使用しようというものです。
最も古い記述では、紀元前の古代国家・カルタゴの名将ハンニバルがこれを使用したとして記されています。
使用したのは「毒蛇」。壺の中に毒蛇を詰め込んで敵軍へ飛ばして攻撃した、なんてことがあったりしました。同じく毒蠍もまた、爆弾として使用されることもあったようです。


そんな中にあって、最も兵器として利用されたのが『毒蜂』だといわれています。
蛇や蠍と違い、機動力と攻撃性にかけては随一の能力をもつこのハチは、敵軍を混乱させるのにもってこい。
しかもこのハチを利用するのは、単に彼らの巣を見つけることで事足りるというのだから便利この上なし。
敵軍に向けて蜂の巣を投げ込めば、毒蜂爆弾は盛大に爆発するわけです。

かつてアメリカ大陸に存在した「マヤ帝国」。史料によれば、彼らは籠城戦の折に城壁の上にカカシの兵隊を起き、その中に蜂の巣を忍ばせておくという方法をとったとされています。
敵軍側がカカシを見つけて攻撃すると、中から毒蜂が殺到する…なんとも周到な手段をとったもんです。
また、古代ローマ帝国時代にはこの蜂の巣を攻城兵器である「バリスタ」でもって敵の城へいくつも投げ込み、城内から混乱させて攻め込んだ…なんてことも書かれていたりします。
さらには第二次対戦後に起こった「ベトナム戦争」では、ゲリラ軍が戦車の車内に蜂の巣を投げ込んだり、ワイヤーを蜂の巣に引っ掛けておいて時限爆弾に使用したり、はたまたグイッと曲げた竹の先端にスパイクボールの代わりに蜂の巣を付けておいて、直接敵兵にぶつける…なんて戦法があったりと、蜂の巣戦法は実にいくつものバリエーションが存在したのでした。


というわけで、今回は戦争で使用された毒兵器についてのお話でした。いかがだったでしょうか。
毒ガスや核兵器といったものについ目を奪われがちですが、自然界に存在するものまで使って敵を殲滅させようとする人間の持つ攻撃性は、昔から変わらず危険なものだと気付かされます。
『私』と『あなた』は『違う』。戦争の最小単位はたったこれだけのもの。そこに気付き、じゃあ争わないで済む方法は?という方向にさえ進むことができたなら、戦争なんてものは簡単に回避できるのだろうと思うのですが…そこに『欲』がある限り、解決できない問題なのかもしれません。

それでは、また次回です(´・ω・`)ノチ

歴史の小話・慶安の御触書編

いやぁ、まいりました。年始からずっと仕事がバタついて時間がないってこのタイミングで大雪の直撃…ただでさえ足りない時間に加え、雪かきでの体力消耗にヘトヘトの店主です。
でも最近駄菓子屋更新できてなかったので、忘れずに書いていこうと思います。

さて今回は、昭和から平成初期に小学生だった方には記憶にあるはずの単語『慶安の御触書』についてのお話。今ではもう、この単語は教科書から完全に消滅しているのです。なぜなんでしょう?
それでは、今回もはじまりはじまり〜


一つ 公儀御法度を恐れ、地頭・代官のことをおろそかにせず、さらに名主・組頭をまことの親と思うこと。

一つ 朝は早く起きて草を刈り、昼は農事工作に励み、晩には縄をないて俵を編み、何事においてもそれぞれの仕事に従事し、油断なく勤めること。

一つ 百姓は分別なく後先を考えないから、秋になると米や穀物を無計画に妻子に与えてしまう。正月や年貢の納入時のことを考え、蓄えを疎かにせず米に手をつけないこと。

一つ 贅沢な衣服を身につけず、木綿を使用すること…

江戸幕府が百姓の生活を統制するために出したとされる、三十二条からなるこの法令。
江戸幕府三代将軍、徳川家光が1649年(慶安2年)に発布し、百姓の支配を徹底させ、年貢の徴収を完全にするために作り上げたこの条文は、歴史の授業で嫌というほど聞いたことのあるあの単語…「士農工商」や「四民平等」が生まれるキッカケともなった…と、当時の学生だった皆さんは教わったことと思います。

当時の教科書には、当たり前のように掲載されていたこの「慶安の御触書」。ですが令和の現在の教科書をのぞいてみると、その存在はどこにも見つけることができなくなっているのをご存知でしょうか。
実はこの御触書、最近の研究によれば『真実ではなかった』というのがもはや定説となっているのです。そして、それに付随して先ほど挙げた士農工商の区別や四民平等という単語ですら、今の子供達には教えられてはいないのです。

歴史の世界では、かつて当たり前に存在していたはずの常識が、後に唐突に変わっていくことも珍しくはありません。
いい国作ろう鎌倉幕府で覚えたあの年号(1192年)も、今では1185年へと変更されていたりします。新たな発見により刻々と変化していく…今回はそんな中で、どうして慶安の御触書が教科書から消えていくことになったのか?を紐解いていこうと思います。


百姓に対して贅沢を戒め、日頃の生活の事細かな部分について厳しく統制していた、慶安の御触書。
酒やお茶を買って飲んではならないとか、雑穀…粟(あわ)や稗(ひえ)を食べ、米を滅多に食べてはならない、などその項目は細部にまでこだわりを見せています。
この授業の記憶が鮮明なおかげで、皆さんの中には
「農民はいつも雑穀だけを食べていたんだ」
というイメージが色濃く残っている方も多いはず。ですが…実際の史料や当時を描いた作品の中の農民らは、普通に米を食べていたことが書かれています。

当時、日本の人口のおよそ八割が「農民」として働いていました。ほとんどが農民だったわけです。
なのに、その農民が全く米を食べられなかった…全てが年貢に回されたとしたら、ではその八割の人口が作り上げた大量の米は、残りの二割…士工商の人々だけで消費していたのか?ということになります。いくら何でも、それでは割合が合わなすぎる。
よくよく考えてみると、あの御触書には結構大きな『矛盾』があったわけです。が、当時の教師達はその疑問に気付かず、または気付いても無視する形で子供達に教えていた…その結果、農民の生活について誤った認識が「常識」として定着し、浸透してしまっていたのです。


『慶安の御触書は、そもそも存在しなかった可能性が高い』
これが、現在における研究結果。昔、一生懸命に覚えた法令が実は作り話だった…というのもショックなことですが、実はこの法令を発布したと記述している史料がなく、また御触書の『原本』もまた未だ発見されていないのです。
もし仮にこの御触書が幕府の正式な法令として扱われていたとするならば、それを示す原本や成立までの経緯を記した史料がない、なんてことは起こり得ない。
幕府の出した御触書をまとめた『御触書集成』という史料にも、また百姓らの統制・支配に関する法令をまとめた史料にも、やはりその存在が認められない…となってくると、慶安の御触書はやっぱり「存在しない」と考えるのが自然である…と、現在の研究では結論づけたわけなんです。

それともう一つ、この法令だけが『異質』な特徴を持っていたことも、実在を怪しむ根拠となっています。
この慶安の御触書、幕府が百姓に向けて『直接』生活態度などの決まり事を配布したことになっている…これが異例。
本来であれば、幕府が法令を民衆に示す際にはまず各地の代官や名主といった、地方を預かる有力者を通じて広められるのが通常だからです。
だって、農民の大部分は文字すら読めず、聞かされたところで意味を理解できるかどうかわからない…なのに幕府からいきなり32ヶ条もの長文を送りつけられて、はいそうですかと理解できるはずがないのですから、これも当然といえば当然の話。
それでもなお直接全国の農民に伝えられたとしたら、日本全国からこの御触書が続々と出てこなければならないはず。なのに現時点で、御触書の原本は一枚も姿を見せていない…となるとやはりその存在は限りなくゼロに近い、となってくるわけなよです。

兵藤 和尊 — 2024/01/25 20:49
よくよく考えてみればみるほど、矛盾とおかしなところだらけなこの慶安の御触書。
ではなぜ、そんな怪しさ満点なこの御触書がつい最近まで教科書に掲載されていたのか?当然その疑問にぶち当たります。

これは、幕末に編集された史料、『徳川実紀』という書物と、明治後期に当時の司法省によって作成された徳川幕府の法令に関する情報を記した史料、『徳川禁令考』の中に、この慶安の御触書が掲載されていたからなんです。
何故この二冊の史料には、存在すら怪しいはずのこの法令が掲載されるに至ったのか…?これには、この二冊の史料の成立時期とその当時に実際に出されていた「地方の藩の法令」が深く関わっているのです。
どういうことなのか、簡単に解説していきましょう。

幕末期、日本は天災と人災、二つが並行して降りかかっており、当時の農民の間には拭いきれない不満が堆積していました。その不満に対処するため、各地方の自治を預かる藩は領民らに対して法令でもって統制をかけようとしました。
それだけならまだ、誤解には至らないはずなのですが…ここで一つ、ある『小細工』を弄したことで、すべての誤解がはじまることとなったのです。

「普通に農民らに生活態度を改めよと書いても聞いてくれそうにない。だったら幕府が一番権威を誇っていた初期、家光公が昔出してたと話を盛って、言うことを聞かせてやろう」
これが原因。この姑息な虎の威を借る狐のような真似こそ、後世に誤った認識を植え付けることとなってしまっていたのでした。


「慶安の御触書」という名前で領民に発布していた記録が確認できるのは、幕末の美濃国岩村藩が最初でした。
名目は「慶安期に配布された御触書を再配布」という形を取りながら、実は再配布などではなく岩村藩が独自に作り上げたもの。
そして、その岩村藩が作成のために参考にした史料が『百姓身持之覚書』という文書。
しかしこの覚書の成立時期は慶安よりもずっと後、1700年頃の元禄期であり、発見されたのは江戸ではなく甲斐国…つまり、真似して書いた原本ですら時期も国も違うという、実に見事な「でっちあげ」だったことがわかったのです。

元々は甲斐国の領民に向けて作られた法令が、時代を経てなんと幕府の正式な御触書として扱われてしまった…ずいぶん飛躍してしまったわけですが、ただ岩村藩だけで済んでしまえば、コトはここまで大きく誤解されることはありませんでした。が、岩村藩のでっちあげたこの法令を、こともあろうに東日本の各藩らがこぞって真似して配布してしまった…これで嘘がまことになったしまったのです。
なんともマヌケな広まり方にも見えるのですが、実はこの裏にはある男の存在が鍵を握っていたのです…


『岩村藩には、慶安年間に成立した幕法が存在する…』
ある史料には、こんな記述があります。これこそ真っ赤な嘘なのですが、じゃあこれを言いふらしたのは一体、誰なんだ?…その史料にはこう続きがあります。
『…と、儒学者・林述斎が述べている。』

林 述斎。この男こそが、実はすべての元凶となっていた人物なのです。
この儒学者、なんと自身が監修にも参加していた『徳川実紀』の中にも、慶安の御触書を正式なものとして掲載しているのです。
その結果…慶安の御触書はいつの間にか幕府の正式な法令として「存在」することになってしまった…
元・昌平坂学問所講師を務めていたこの男に岩村藩が農民統制のための手立てを相談したことが事のおこり。
「地方の小藩が出す法令より、幕府の法令を再配布という名目にしたほうが効果的だ」
というアドバイスをした上、甲斐国で配布された法令を自分が書いたかのようにコピーして岩村藩へ提出した…
こうして出来上がったのが、述斎によるコピペ法令…
『慶安の御触書』
その正体だったのです。


述斎が語ったとされる先ほどの一文、
『岩村藩には慶安年間に配布された幕法が存在する』
というのは、これは完全なる嘘。述斎が己の嘘を隠すために塗り固めたメッキだったんです。
そしてさらに悪いことに…岩村藩の真似をして「慶安の御触書」を配布した東日本の各藩というのは、実は皆がこの述斎を教師として藩校に招いていた。つまり、この儒学者の「ペテン」にまんまと引っかかってしまったわけなのです。
述斎が赴いていない西日本で慶安の御触書が全く浸透していなかったのもこれで頷けます。

「誰も幕府黎明期の法令が真実かどうかなんて調べられないだろう」
述斎の詐術、卑劣極まりなし。もし家光がこれを聞いたら、述斎は即座に首を刎ねられていたことでしょうね。
まんまと嘘を実にしたこの述斎のペテンに、徳川実紀より後に成立した『徳川禁令考』も引っかかってしまった。
明治政府が作った司法省がこれを認めてしまったがゆえに、ついに慶安の御触書は教科書に載るところまで行ってしまった…これが、慶安の御触書誕生のカラクリ。
(そんな嘘、見抜けない奴が一人もいなかったのか?)
という疑問が当然浮かぶ、わけなのですが…。

ここに、最後の「思惑」が合致してしまうことになります。
一般民衆へ向けて質素倹約を勧め、幕府(=新政府)に対して勤勉であることを推し進めたこの法令は、実は明治政府にとっても好都合。富国強兵を目指し、10年ごとに大戦を繰り返していた当時、余計な疑問を抱かせないように彼らもまた述斎の詐術を「利用」したわけです。
慶安の御触書とは、実は
『施政者にとって最も都合のいい嘘』
だった…という、利用される側にとっては一番腹の立つ法令だったのでした。

というわけで、今回は慶安の御触書についてのお話でした。いかがだったでしょうか。
なんとも後味の悪いお話ですが、どうやらこの悪習は今現在もなおそこかしこに見られるように思います。
自分達の都合の良いように法解釈を捻じ曲げ、あたかもそれが「正しいこと」のようにふんぞり返る…そんな施政者を、つい最近でもよく見かけるような気がしますが、さて…そのメッキ、いつ剥がれることになるのやら?

それでは、また次回です(。・ω・。)ノチ

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