三国小話・全琮編
つい先日のこと、長いこと贔屓にしていたいきつけのお店が長い歴史に幕を下ろされました。
昭和の時代からずっと同じ場所で、変わらぬ味を提供し続けて下さったこと、生涯あの味は忘れることはないだろうと思います。
しかし…またひとつ『思い出の味』が増えてしまったことを残念に思わずにはいられません。もう一度、食べたかったなぁ…
さて今回は三国小話。呉国内にあって列伝に「完全無欠」な名将としてその名を轟かす武将、全琮のお話。しかし…どこかに違和感が。
それでは、今回もはじまりはじまり〜
全琮 子璜(ぜんそう しこう)
呉郡の出身で、孫権に仕えた武将。後漢の『孝廉』にも選ばれ、呉の大都督にまで抜擢されるという輝かしい経歴の持ち主で、戦場に出れば負け知らず、関羽を奇襲する策を事前に考案して孫権から褒められるなど、文武両面において非凡な才能を見せた人物とされる。
「誰だ!」という声がほとんどだと思います。冒頭のような大活躍をしていながら、実際のところ知名度に関していえばイマイチどころかほぼ通用しないほど、この全琮という男の実力は経歴ほど評価されていないのが現状といったところ。
おそらく、どこかのゲームで彼が実装されたとしても、せいぜい中堅クラスかそれ以下…その他大勢の部類に入れられてしまうのではないでしょうか。
あまりにも列伝と知名度に差のあるこの全琮という人物…この違いは一体どこから生まれているのか?店主の個人的な考察も含めながら、まずは彼の輝かしき「列伝」を紐解いていくことにいたしましょう。
全琮は揚州呉郡にある、銭塘県という土地で誕生しました。こうまでしっかり住所が残っているところを見る限り、彼はかなり有力な家柄の出身であることがわかります。
それもそのはず、彼の生まれた「全家」は、古くから揚州で勢力を誇っていた土豪の集団、いわゆる『呉郡四姓』に次ぐとさえいわれた名族。陸、顧、朱、張…この四姓が牛耳る中で、全家はこれらに負けるとも劣らない勢力を誇る一族だったんです。
さてそんな名家に生まれた全琮でしたが、彼よりもまず先に有名になったのは彼の父である「全柔」。後漢末期の動乱の中、全柔はわざわざ中央から招聘を受けて就職したというほどのエリートで、しかもその任務はといえばさらにその中でもトップクラスのエリートコース、尚書…簡単に言えば中央の官僚になるための第一歩ともいえるポストを与えられました。
ブッチギリで高待遇な役職を与えられた父を持ち、全琮は生まれながらに裕福な育ちを受けることとなったのでした。
しかし。そんな明るい未来はあの男…『董卓』の出現によって絶たれることになります。霊帝(劉宏)の病死と、それに伴う宦官と大将軍・何進(かしん)との権力闘争によって洛陽は大混乱となり、その間隙を縫って霊帝の二人の息子…劉弁と劉協を手に入れた董卓は、我が物顔で国政を私欲で満たすようになり、世は再び戦乱へと舞い戻っていってしまったのです。
そんな状態ですから、全柔もこの先の出世は見込めない…どころか、董卓の機嫌一つで命すら奪われかねないと悟った全柔はさっさと職を辞して故郷の呉郡へ戻り、その後揚州を平定しにやってきた『小覇王』孫策に仕えるようになったのでした。
そしてその孫策が200年に横死してからは、その弟である孫権にそのまま仕えることとなったのです。
孫権から与えられた、全柔の役割は「車騎将軍」。全軍の中でもこれほど高位な役職を与えられたのは他にはいません。全柔は孫権軍の幕僚の中でも筆頭を張る立場となり、あの『呉郡四姓』のうちの一家、張家の代表である張昭(ちょうしょう)をもしのぐ立場を手に入れたことになります。
…とまぁ、こんな非の打ち所がない立派な父を持って生まれた、今回の主人公全琮。そんな彼ですが、どうやら若い頃から立派な父にも決して劣らない才覚を持っていた…といいます。
ある日のこと。父からちょっぴり面倒な『おつかい』を頼まれた全琮。そのおつかいとは、車にひかせた五千石の米を街で金に換え、その金で必要なものを買ってきてもらう…というもの。つまり、商才如何では手にする金額に差が出るという若干試しているようにも見える内容でした。
ところが…全琮は何を思ったか、『何一つ』持ち帰らずに帰ってきてしまったのでした。
『預けた米はどうした?頼んでおいた物はどこにやってきた?!』
当然、色をなして全琮に問いただした全柔。すると全琮は
「あの五千石は、近隣で食うに困っていた人々に分け与えてきました。今回聞いていた品物はどれも緊急に必要とは思えませんでしたので、後回しにいたしました」
と、悪びれることなく答えたのだとか。
これを『英断』『慈悲深い』と取るか、『勝手』『自己満足』と取るのかは議論が分かれるところ。が、列伝はこう続きます。
彼のしたことは近隣で評判となり、戦乱のうち続く中で銭塘県に疎開してきた民衆らは、皆全琮に頼ろうと集まってくるようになり、全琮はその願いを聞き入れて私財を投じて彼らの面倒をみてやることになり、結果全琮の名は呉郡でひときわ鳴り響くことになった…のだとか。
なんでしょうね、このよくあるサクセスストーリーみたいな展開…個人的にこの辺りからすでに色々香ばしい匂いを感じます。
さてそんな全琮ですが、なにも器がデカいのは心だけではない。戦場にたっても彼の大活躍は常に見られます。
特に孫権陣営にとっては、樹立当初からずーっと長い間懸案とされる案件、『山越族』との抗争。常に反旗を翻すこの異民族の平定に、全琮もまた将軍として派遣されることになりました。
そこで全琮は、孫権から与えられた五千の兵に私財を投じてさらに兵を集め、一万の軍勢に拡大して事にあたったおかげで山越の侵略を跳ね除け、任務を全うしました。その軍功もあり、全琮は正式に孫権軍の一翼を担う武将の仲間入りを果たします。
さてここから、全琮の大活躍が始まるのでした。
この頃、中国大陸はほぼ魏・呉・蜀の三国で鼎立する拮抗状態が完成しつつありました。
北部を中心に天下のほぼ七割ほどを手中に収める魏、荊州を隔てて西の益州を我が物とした蜀…そんな中にあって、呉は常に一歩遅れた状態。北にも西にも勢力を伸ばすことができず、相変わらず山越ら異民族との抗争は続く…逼塞の状態が続いていたのです。
赤壁の戦いの勝利で魏軍に大勝を収めることはできはしたものの、かといってこれにより領地が拡大できたわけではない。しかも劉備に貸した荊州はそのまま関羽が居座り、ちっとも返す様子がない。どちらにも手を伸ばせないまま、決死の覚悟で乗り込んだ『合肥の戦い』は、魏の名将・張遼の活躍により阻まれることとなり、呉国内のフラストレーションは溜まっていく一方…
「元はと言えば、劉備が助けを求めてきたから手を貸してやったのに」
という不平不満が募っていった結果、とうとう蜀・呉の同盟関係には大きな亀裂が走ることとなったのです。
曹操軍を相手に、漢中の定軍山で驍将・夏侯淵を破り攻勢に出た益州の劉備本隊と歩調を合わせるように、荊州の留守を預かっていた関羽が同時に北へと侵攻を開始。連戦連勝を重ね、龐徳を斬り于禁を捉え、怒涛の勢いで魏の都・許昌を目指す。さしもの曹操ですら遷都を考え始めた、そんな時…
呉は盟友であったはずの蜀を裏切り、大将・呂蒙に命じて関羽の後方を襲わせ、まんまと勝利。関羽を斬り、荊州の奪還を成功させたのでした。
この奇襲作戦はそもそも、孫権と参謀についていた若き司令官・陸遜、そして当の呂蒙以外は誰にも明かされていない極秘の作戦でした。
ところが…ただ一人、この作戦が実行される直前に孫権へ向けてこの作戦を主張した人物がいたのです。それが全琮…彼はたった一人でこの妙案を思い付き、孫権に献策したのでした。
その結果、戦勝の酒宴の最中に孫権は
「君の見識の高さには参った。まさか自軍にこの作戦を見破る男がいたとは」
と、全琮を絶賛した…とされているのです。
この『事前に策を思いついていた』という部分…ここにも何やら疑問符がつきます。
そもそも列伝では、全琮がこの作戦を打ち明けた際に孫権は彼に口封じをしており、結局作戦そのものは極秘裏のまま決行された…とありますが、じゃあ全琮が本当に策を思いついていたのかどうか?その証拠を指し示すものはどこにも存在しないことになります。
そして、「実はこうだった」という後付けの結果論は、これは誰にでもできてしまうこと。それこそ、「列伝を書いている人間」の気分次第で、いくらでも盛れてしまう部分と言わざるを得ないわけで…。
ま、今はそのことはさておき。義弟・関羽を失った劉備の怒りは収まらず、蜀の皇帝へと即位したその翌年に劉備は関羽の弔い合戦とばかり呉へと侵攻を開始。対する孫権は迎撃の総指揮を陸遜へと預け、陸遜は劉備軍の猛攻を耐えに耐えて逆転の機運を待ち、火計によってこれを撃退するという大勝利を収めます。これがいわゆる『夷陵の戦い』です。
ただ、この戦いで最も得をしたのは第三者である魏。呉蜀の同盟の破綻は、魏にとっては各個撃破の大チャンス…魏の皇帝・曹丕は、ここぞとばかり呉へと攻め込んでくることとなったのでした。
大将軍・曹休をはじめ、曹仁・曹真らを三軍に分けて同時に襲いかかる魏軍。これに対し、孫権は敵主力の防衛を宿将・呂範(りょはん)に命じ、その与力として全琮を配置。
ところが敵勢力にはあの張遼や名将・臧覇(ぞうは)らが加わっており、呂範軍は防戦一方。敗退していく味方の中、全琮はただ一人踏みとどまって前線を守り、後方からとうとう前線へと呼び出された呉の守護神、賀斉(がせい)の到着まで持ち堪えたのでした。
戦術面でも、戦力としてもとにかく八面六臂の大活躍を見せた全琮。そんな彼はやがて出世を重ね、故郷である銭塘県を含む「九江太守」という重職に任じられることに。彼に与えられた最大の任務は…やはり『山越の討伐』でした。
この頃すでに引退、もしくは世を去っていた賀斉にかわり、山越平定の任を引き受けた全琮は、ただ闇雲に山越を討伐するのではなく、彼らの主張にも耳を傾け、自軍の規律を厳しくして範を示し、次第に山越族の帰順者を増やしていった…といいます。
この男、とにかくやることなす事全てがうまくいく…武将の「教科書」のような人物として列伝が残されているのです。
そんな全琮に、孫権はとうとう「お前も孫家にならないか」と誘います。つまり、孫権の娘…孫魯班(そんろはん)との結婚を勧めたのです。
ずいぶん昔の小話で書いた内容なので、お忘れの方も多いとは思いますが…この娘こそが呉の衰退を決定付けることとなる悪女。実の妹…魯育を死に追いやり、呉国内を真っ二つにした派閥争い『二宮の変』を勃発させた、張本人です。
孫権の祖父・孫堅や兄・孫策の血を色濃く受け継ぐこの魯班を妻とした全琮は、この後に起こる呉軍最大の作戦「芍陂の役」において全軍を統括する大都督へと抜擢され、揚州全軍の主力部隊、その全てを任されます。
先陣に諸葛瑾の息子・諸葛恪を据え、自身は主力軍を率いて北上を開始すると、同時に荊州からは諸葛瑾を先頭とする別動隊を、後詰を夷陵の戦いで殊勲を挙げた朱然(しゅぜん)に任せて多方面からの侵攻を開始。さらに全軍の遊撃隊として、孫権の皇太子である孫登(そんとう)、その参謀に陸遜を付けるというオールメンバーを動員しての大戦へと臨んだのです。
戦況は一進一退、激戦となったその最中…事件は唐突に起こる。孫権の後継者だった孫登の急死により、半ば隠居状態だった孫権は慌てて実権を握らざるを得なくなってしまいます。
が、後継者を突然失った孫権の悲しみは深く、この芍陂の役はなんら得る事なく撤退を余儀なくされてしまうことに。
しかも悪いことに、同時期に孫権のブレーキ役だった諸葛瑾も病でこの世を去ってしまったことから、呉は唐突に大黒柱を二本失ってしまったのでした。
この孫登と諸葛瑾の死が、結果二宮の変の引き金となりました。
優柔不断な孫権は、呉の次の後継者の候補選びに迷いを生じてしまいます。
三男の孫和(そんか)と四男の孫覇(そんは)、この二人の皇太子を「同等に」扱い、どちらにも後継者たる力があるように分散させてしまったせいで、二人をそれぞれ推す『派閥』が出来上がってしまう結果となってしまいます。
そして…本来ならば絶対に避けなければならない家中分裂という最悪のシナリオを、裏で煽り操っていたのが全琮の妻…孫魯班だったのです。
孫覇を推す魯班は、孫和を引き摺り下ろすべく暗躍を開始。というのも、原因は単純…孫和の母と魯班との仲が悪かった…という、単純極まる理由のためだけに、家中は引っかき回されることとなります。
が、実はこの際に別れた『派閥』が、もう一つの問題点を浮き彫りにしていました。
それぞれの皇太子を推す派閥は、実は綺麗に「ある共通点」によって別れていました。その共通点こそ、呉という国の根幹に関わる大問題…『呉郡四姓』の存在。合議制によって政治が行われるという特殊な形態を持つ呉にとって、彼ら四姓の存在は決して無視ができない重要なもの。が、この時四姓らはこぞって孫和についていたのです。
つまり。魯班にとって四姓らは
『孫家の独裁を邪魔する存在』
でしかなく、我の強い彼女にとってそれらは排除すべき敵。だからこそ魯班は四姓以外の勢力を(全琮も含めて)一方へと集め、これに対抗しようとしたのです。
そして、魯班が最も警戒していた孫和派の筆頭に収まっていたのが、四姓のうちの一つ陸家の当主、陸遜だったのです。
列伝において、陸遜は
「能力はあれど気性烈しく、他者の心を考えない」
という評価をされています。
その評価が、果たして本当のことなのか否か?それはかなり疑問ですが、魯班はこの点をしつこく父である孫権に吹き込み、やがて孫権は陸遜を遠ざけ、陸遜を自害へと追い込むこととなってしまいます。
こうして孫和派の筆頭を排除したことで孫覇派は台頭し、やがて孫覇派の影の暗躍者たる魯班の夫として中心に据えられていた全琮の存在感は呉国内で絶対のものとなり、二宮の変は孫覇の勝利という形で終わる…はずでした。
が、その直後。その全琮が病で急死したことにより、両派閥のトップが姿を消すという元の木阿弥状態へ逆戻り。結局この泥沼は呉の滅亡まで、尾を引くこととなっていったのでした。
二宮の変辺りで、唐突に「全琮」の存在感が消えていたことにお気づきだと思います。そう、彼はこの変で何かをしたわけでもなければ、止めようとしたわけでもない。ただただひたすら「担ぎ上げられていた」だけ。魯班の夫という立場でなければ、そもそもその場にいたかどうかも分からない…それくらいの存在感しかなかったんです。
若い頃からお手本のような行いを見せ、文武両道に大活躍を見せたあの面影は、後年まったく影を潜めている…まるで、彼が
「ただの普通の人」
であるかのように。
これが、今回の一番の肝となる部分なんです。
さんざん匂わせてきましたが、彼の大活躍を描いた「列伝」。その作者は誰あろう全琮の息子であり、魯班の息子でもあるわけです。
だから、父であり派閥の長に据えられていた全琮のことを、間違ってもあしざまには書けない…経歴そのものは呉史にあれど、その内容に関してはそのほとんどが『創作』されたものである、というのが店主の見解。
でなければ、現在における彼の評価とあまりにもかけ離れすぎていて整合性がとれないのです。
歴史は勝者が造るもの…が、人の評価はそう簡単にはいかないもの。後年になってしかわからない部分ではあるものの、歴史とはそういった『真贋』も、意外に正しく伝わっていくものなのではないか?と思います。
というわけで今回は全琮のお話でした。いかがだったでしょうか。
自身の経歴を美化・誇大に装飾し、尊大に構える人というのは今も沢山います。が、それが実際には『裸の王様』でしかないことに、果たして当の本人は気付くことができるのか、どうか?
そこに、本当の器量というものが見えてくるような気がします。
それでは、また次回です(。・ω・。)ノチ
