戦国小話・兵さんぽ (。・ω・。)
天気予報を見ると、今年は「暖冬」だとしきりにニュースでやってます。しかし、そのあとに必ずついて来る「平年並み」という言葉。
なんだ、結局そうでもないんじゃん…( -_-)
寒いものは寒い!こんばんは、寒がりは人一倍の兵藤さんです。

さて今回の戦国小話は久しぶりの兵さんぽ。巷では兵藤さんがどういうわけか年寄り扱い。なので中には「徘徊」って呼んでる声が…?!
散歩です、散歩。
今日は兵藤さんの住んでるところからちょこっと東に進んでみようと思います。
それでは、今回もはじまりはじまり~



「♪信長になってみたいけど~ 信長になってみたいけど~ そんな~ウツワじゃ あ~りま~せ~ん~♪」
東海地区にお住まいの方なら、必ず聞いたことのあるこのフレーズ。
愛知県清須市に本社がある「桜酒造」さんのヒット商品、「清洲城 信長 鬼ころし」。
今回は、愛知県清須市にやって参りました。電車ですとJR東海道線、名古屋駅から下り線の普通列車に乗って一駅目の「枇杷島駅」から二つ目の「清須駅」までが清須市となります。
庄内川、五条川、新川と三本の川が市内を流れ、つい20年ほど前にはこの地域を襲った台風の猛威により、新川と庄内川が決壊して大変な被害が出ました。
そう、濃尾平野のド真ん中に位置するこの地は川の水位と土地が同じ高さになっており、昔から水害に悩まされていた地域でもあるのです。

さて。はじめにご紹介した桜酒造さんは、この三本のうち五条川のほとりにあります。驚くことにすぐ隣にはアサヒビールの工場があり、事情はわかりませんがお酒にやたら縁があります。
ところで、冒頭にご紹介したCMソング。「鬼ころし」の歌なんですが、歌っているのは日本有数の「CMシンガー」横井則子さんという方。この方、歌手でありながら自身のライブで歌うのはほぼ全てどこかの会社のCMソングというとても変わった方。主に東海地区を拠点とする会社のCMソングを歌っておられ、「メガネプラザ」「あかのれん」「両口屋是清」「パールライス」など、ワンフレーズの声はほとんどこの人といってもいいくらいレパートリーが沢山あります。
ちなみに、横井さんの娘さんもCMソングデビューをこの間果たされたとか。
「おかあさんは誰から生まれたの~♪」のフレーズでおなじみ、葬儀場「愛昇殿」のCMがそれです。親子でCMソング界を引っ張ってます。



…のっけから何の話だ( -_-)歴史全く関係なぃ…ちゃんと散歩を始めましょう。
桜酒造さんのある五条川を川上へ上ると、春には桜並木が美しい「清須公園」があります。そしてその隣にあるのが「清洲城」です。
言わずとしれた、織田 信長の最初の居城です。しかし今回はあえて信長ではなく、その父親にスポットを当てます。

織田 信秀(おだ のぶひで)
通称「尾張の虎」。息子が有名すぎてかなり影の薄い信秀ですが、実は信秀もかなり優秀な武将です。彼なくして、信長の覇業は生まれなかったと言っても良いでしょう。
彼の生まれたのは、尾張国の統治を幕府から任されていた「守護代」に仕える身分の低い家。17歳で当主となると、瞬く間に本家を追い抜いて勢力を拡大し、那古屋城(現在の名古屋城とは別です)を奪って清洲城から引っ越し。後に当主となる信長にこの城を預けました。

信秀の才能は、武勇もですがそれ以上に「周辺の有力勢力」への根回しの周到さにあります。田舎の小さな大名であるにも関わらず、朝廷や伊勢神宮などに度々献金を行ったほどです。
これが当時どれ程珍しい事だったのか?というと、尾張守護の織田家は、斯波氏という守護大名の「家老」という身分。ですから、信秀は正確には大名ではなく「大名に仕える家老」なんです。
にも関わらず、主君である斯波氏を差し置いて朝廷へ直接献金していた…という、ある意味で「非常識」なことだったのです。

しかし、それだけに朝廷に与えたインパクトは大きく、信秀の名は朝廷でかなり有名になりました。おかげで、信秀は斯波氏を飛び越えて直接幕府のトップ、将軍足利義輝に拝謁(面会することです)を許されたほど。
そしてこの信秀の行為が、後に義輝の弟・義昭が上洛する際に信秀の息子である信長を指名するキッカケとなったのです。もし信秀が朝廷へ献金をしていなければ、上洛の時に信長に声がかかったかどうか?
破天荒で知られた信長の父親も、息子に負けず劣らず破天荒だったのです。


さて、そんな破天荒な信秀が次に目指したのは清須よりもさらに東でした。
尾張のお隣、三河の国を拠点に大暴れしていた戦国武将・松平清康(まつだいら きよやす)が不慮の死を遂げると(これを「森山崩れ」と呼びます)、信秀はその隙を狙って三河へ侵攻。しかし、おかげで信秀はさらに大きな敵に目を付けられます。
駿府を本拠地とする「東海一の弓取り」と名を馳せた名門、今川義元です。こうして、織田家は今川家と対立することになります。
ちなみに。先程チラッと出てきてすぐ死んじゃった松平清康は、徳川家康のお爺ちゃん。彼についてはまたいずれ、武将風雲録で触れたいと思いますです。

「ヤベエ奴に目をつけられた」と焦る信秀の背後から、更に事態を引っかき回す男が現れます。
主家である斯波氏を下克上で破り、尾張のお隣・美濃国を手中に収めた「マムシ」斎藤道三。信秀は、東西に強敵を迎えて苦戦することに。
そんな中、今度は身内が喧嘩を始めてしまいます。長男吉法師の奇行を「うつけ」と呼んで、反乱を企てる一派が出て来たのです。
まさに内憂外患。信秀ピーンチ。…まぁ、その原因の半分くらいは自業自得なんですが。



八方ふさがりになってしまった信秀ですが、この事態を打開すべく取った手段が
「斉藤家と姻戚関係になって和睦しよう」
というもの。そして、その外交のために選ばれたのが息子のお守り役である「平手 政秀」(ひらて まさひで)でした。
政秀の辛抱強い交渉により、ようやく吉法師改め信長は斎藤道三の娘・濃姫と結婚。強敵の一つを解決します。
ところが、もう一つの強敵である今川家へは対抗手段を打つことができず、信秀は病で亡くなります。
跡を継いだ彼を嫌う一派も残ったまま、信長はここから天下布武への道を歩むことになるのです。




さて。信長が生まれ育った清須城はその後数々の「イベント」の舞台となります。
信長が今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」の後、岡崎で独立した松平家康と同盟を結ぶ会議を行ったのもここ、清洲城。通称「清洲同盟」です。
この会議で、信長と家康は互いに協力し合い、信長はここから西へ、家康は東へ進むという約束が交わされました。
この約束に不満を持ち、後に家康を裏切って追放・殺害されたのが彼の妻・築山御前です。この辺りは小話「非業の二代目」編で触れました。

清洲城は、さらに大きな会議の会場となります。天正10年に起きた「本能寺の変」。清洲城の主であった信長がこの世を去り、羽柴秀吉が明智光秀を破った後に織田家の行く末を議論したのが「清洲会議」。結局物別れに終わってしまいますが、その後の織田家を決定付けました。
清洲城は、歴史の大きな節目をずっと見届けてきたお城なんです。



さて、清須市を流れる庄内川の向こう側は、もう名古屋市となります。現在では東海地方で最大の都市となりましたが、この繁栄は元々清須市にあったことは、ご存じでしょうか?
そう、名古屋市にある民間や商店をはじめとして、寺、町の名前に至るまで、そもそもは清須市、もっといえば清須市南部に位置する枇杷島地区にあったものなんです。
このキッカケとなったのが、関ヶ原の戦いで天下を収めた徳川家康なのです。

江戸で幕府を開いた家康は、故郷である岡崎やその近くに位置する尾張一帯を自分の息子達に治めさせました。家臣より信用できる身内に故郷を守らせたわけです。
その際、名古屋の地は家康の救難士である徳川 義直(とくがわ よしなお)が治めることとなり、後に「御三家」と呼ばれる尾張徳川家となります。
御三家といっても、橋幸夫・西郷輝彦・舟木一夫の三人は関係なぃので悪しからず(古い?)

尾張徳川家となった義直は、金のしゃちほこで有名な名古屋城を築くことになるわけですが、実はこの時点では名古屋の地はそこまで発展しておらず、むしろ隣の清洲城界隈のほうが歴史も古く、発展していました。
そこで、家康は自らの権力をより確かなものにするため、尾張地方の中心地を清須から名古屋に移すことを決定します。
こうして、清須城周辺にあった城下町を丸ごと名古屋城周辺に引っ越しさせたのです。
これが「清須越し」と呼ばれます。当然、それまで繁栄していた清須の町は一変。それまでの歴史を名古屋市に奪われてしまうことになってしまったのです。




しかし。清須市はここで終わるほどヤワではありませんでした。
清須越しによってほとんどの機能を失った清須の町で、活気を取り戻そうと声を上げた男がいたのです。
現在の枇杷島町にその名が残る「下小田井」(しもおたい)に、生鮮品を並べた市場を始めた市兵衛という商人。彼は寂れてしまった清洲の地で
「生まれたこの地に再び活気を」
と、辛抱強く市場を開き続けました。

この努力が実ったのが、江戸幕府開始から14年後の「大坂冬の陣」直後。市兵衛の名を聞いた家康は、彼に直接市場開放の命を与え、正式に下小田井の市は認められることになります。
その後、下小田井は江戸の神田、大坂の天満地区と並んで「日本三大青物市場」として発展し、その後続く200年の江戸時代の間、名古屋の食生活を支える巨大市場となっていったのです。



この市兵衛の努力は、思わぬ所に影響を与えることになりました。
「清洲越し」を乗り越えた商人はきっとホネのある奴だ…という、いわば一種の「ステータス」に見られるようになったのです。
その代表格が、現在も百貨店として大きな力を持つ「松坂屋」の創始者である伊藤祐道や、野球場の看板などでよく見かける企業「竹中工務店」の創始者、竹中正高。
清洲越商人として名の売れたこの二人は元々は武士の家柄。しかし、激動の戦国時代から平和の江戸時代へと時代が移りゆく中で、彼らは新たな道として商人としての生き方を選び、そして「清洲越し」の苦難を経て成功を収めました。そして、そんな彼らの英断と不断の努力は、今もなお続く大企業として受け継がれているのです。







というわけで、今回は愛知県清須市をお散歩してました。いかがだったでしょうね?
実は下小田井に友人が住んでいる兵藤さん。そのせいで清須市の歴史にちょっとだけ踏み込んだ経験がありまして、おかげで今回の小話となりました。
歴史の転換点として存在した清洲の町。その後に起きた大移動と、それによる衰退に果敢に立ち向かったこの町は、幾多の災害にも決して負けない「日本人の意地」を教えてくれる気がします。こんな町が、今の日本を支えているんでしょうね。

さて、駄菓子屋さんでは随時リクエストや疑問、またご新規のお客様をお待ちしております。ふとした疑問な質問など、気軽に書き込んで下さいね( ´艸`)
それでは、また次回です (。・ω・。)ノチ